自分の起こした感情が自分にそのまま返ってくるという話

どうしてもやめられない習慣があるが気づけない

その習慣によって、イライラ、クヨクヨ、気分が上がったり下がったり。

そんな自分の心に振り回される自分と、もう何年、何十年付き合っているんだろうか。

でも、そんな習慣を説明しろと言われるとうまくできないのが、これまたあたりまえ。

 

さて、今まで生き続けてきたことで自分を好きになったか⁉︎

 

ここで言う『自分を好き』とは、自分のことにしか興味がないこととは違います。

それは、

してもらってることには目がいかず、してもらってないことにばかり目が向くこと。

 

30年弱になりますが、こうやってカウンセリングやセッションの世界にいさせてもらうと、20代そこそこで自分という人間を好きな人って、なかなかいませんよー。と思ったりします。

変わって30代になっても。

表面的ナルシズムは別として、あなたは今の自分の中身が好きかどうか

 

例えば、あなたが責められていると感じて苦しいなら、

なぜ私ばかり責められるのか。

どうしたら責められなくなるのか。

を考えてばかりいませんか?

 

「なぜ自分の心はこんなに苦しむんだろうか」と考えたことはありますか?

つまり、自分から逃げてはいませんか?

 

自分から逃げる人は、周りの人達から責められていると感じ、誰からも必要とされていないと思い不安になります。

 

自分が誰かを責めている人は、周りの人達が自分から逃げているように感じ、見捨てられるのではないかと思い不安になります。

 

どのみち不安になるんやざ。

 

自業は自得をつくるということ

私はなぜか昔から、『自業自得』という言葉が好きです。

これを言ったり文字にしたりすると「わぁ、冷たい心の人間だな」と思う人や印象を受け取る人もおそらくいるでしょう。

実は、そんなにネガティブなものがこもっているわけではありません。笑

若い頃から身の程を知る経験が多いと感じているというか…。

善業は自分自身が気分が良いというか。

 

『身から出た錆』とかも、

突っ走る心を止めることができ、役に立つので好きな方です。

 

原始仏教を好きで学んでいた20代の頃、よくこんな風に思うようにしていました。

『できない自分を責める必要はない、そもそもあなたは誰よりもすごくなれるほど、大した人間ではないのだから。人は本当の意味であなたに興味はない、だから肩の力を抜いて堂々と生きよ』と。

 

現代では、

どれほどにSNSで「ほら、すごいでしょ」と自慢をしたとしても、まだまだ世の中にはズバ抜けた人がゴロゴロいるんですから。

マウントごっこは、ごっこにしておかないと自信なくしちゃいますよ。

なので、こんなに大したことない自分が、子育てに仕事に本当にいつも頑張っているなぁと。

自分に優しく、

そして自業自得。

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黒いノートの色もグレー玉の色も同じなんだけど、グレー玉の色がぜんぜん違って見えます。

視点って大事。

 

生きる姿勢は、コミュニケーションの受け取り方だけでなく身体にも現れてきます。

マッサージセラピストとしての経験上ですが、

自分を責めている人の身体は、とにかく背中が脊柱沿いがカチコチなんです。

言葉や感情として人に対しての不満やイライラが多く、わざわざ言わなくても良いことを言ったりしますが、

実際には自分に突き刺さる自分の行いを防御している。

人を責めている様でいて自分をすごく責めています

 

例えばこれを仏教では、

責められたからといって相手を責め返せば、その思いや行い(悪業)は積もっていき、

その報いで「自分の中に、自分の悪を責める鬼(自得)が生み出されてくる」と考えます。

自業は自得をつくる、本当にそう思います。

だから、善業をやり続ける。

善い行い、です。


あなたが他人に“イラッ”とした時や、「なんですと⁉︎」と物申した後、「あ〜やってしまった〜」と感じた時に度々現れてくるのが鬼です。

そしてこの鬼が、「まったく、お前はダメだな!」と自分の存在を否定してくるので、その様な醜い自分を消し去ろうとします。

そのために苦しくなったり不安になったりするんです。

ダメなことした自分だからダメな自分に罰せられる。

つまり、これが自業自得

 

棚に上げた自分を、時々棚から下ろしてみる

他人にやり返したことは、結局は後になって自分にやり返すこととなっているのがわかります。

また、コミュニケーションは受け取る側で決まるというルールがあります。

相手の反応によって自分が何者であるかに気づくのですね。

なので、あなたが受け取ったことは、相手が伝えたかったことではないかもしれない。

 

それでも『自分の悪業という習慣をやめられない』のなら

他人が自分へしてきたことを“わざとしてきた嫌がらせだ”と取る心を変えることはできません。

「私は意地悪などしていない」

「向こうが先に悪いんだから」

私は“された側である”という受け取り方をしてしまっている心がある時点で、

全ての可能性が止まっています。

 

棚に上げた自分は誰にでも存在します。

何かを得ようと焦らず、心落ち着けて、心の準備をしたあと、そっと棚から下ろします。

  • 感じたことが事実ではない
  • 自分が考えていることが皆も考えていることではない
  • やったこと言ったことは取り消せない

私の場合、仏教が先でその後、心理学と精神分析を学んでいますが、

精神科医エリックバーンの交流分析も仏教と似ています。

鬼はあなたの中にいるけども、最初からいたわけではなく、早い時期に様々なシステムの中で身につけた鬼であり、その鬼が自分を苦しめている。

繰り返す言葉や行動という悪業鬼そのものなんですね。

 

不満は陰で言わずに、必要であれば本人へ思いやりのある言葉で伝えるのもひとつ。

馬鹿にされたと思った時は、相手を馬鹿に仕返さずに、そう受け取った自分の心を振り返る。

 

善業ってなにも「他人に良いことをしてあげる」ことだと決めつけなくても良いです。

自分が思う良いことが相手にとって良くないことかもしれませんからね。

この辺りのボーダーライン判断は、セッションをやりながら身に付けていくと早いですね。

 

すぐに馬鹿にされたと思うのは、自分も他人をすぐに馬鹿にしているからです。

被害者意識の強めな人へ、

しているから、されたと思う

しない人は、されたとは受け取らない

していない人は、されたことにも気がつかない

 

余談ですが、

根拠のないものと根拠のあるものどっちがいいの⁉︎という混乱について、

仏教の考えと精神分析も、スピリチュアル指導者と科学者も、真理を突き詰めていけば、最後には同じ山の頂上で出逢うのだといいます。

白か黒か思考の時点で先は見えてきません。

やり方や物事に良いも悪いもなく、目指す場所が同じであればよいのです。

無論、目標を見失うからブレるのですが、、

 

『自業自得』の責任、どんなことにも当てはまると思います。

 

善業は生きる姿勢をシャキッとさせてくれます!

悪業に気づいた人から、やめていきましょう☆

 

心理学の巨匠フロイトユングですら、お互いに分かり合えなかったわけですから。

心を楽にするのは生涯修行だな〜

 

今日も、最後までお読みいただきありがとうございました。